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Ri棚田学会
Rice Terrace Research Association


                    棚田の起源

棚田の定義
棚田の起源
棚田の意義
棚田の種類
文化的景観
世界遺産
世界農業遺産(日本)
 ここでは、古文書から棚田の起源を検証してみます。
棚田の起源
棚田がいつ頃からみられるようになったのか、正確にはわかりませんが、古島(1967)の研究によると、飛鳥に都が置かれるようになる以前、古代の水田は、盆地の平坦部ではなく、盆地を取り巻く丘陵や山地に刻まれた小さな谷にできたらしいとあります。
そこで、ここでは、いま現在わかっている「棚田の起源」を、古文書(高野山文書)から検証してみます。

高野山文書
高野山文書とは、高野山内に現存する中世・近世の高野山の歴史のみならず日本史における重要な古文書群である。古くは延暦24(805)年から寛保3(1743)年に到るまでの、金剛峰寺をはじめたとした寺院関係のものをはじめてとして、歴代天皇の論旨や公文書、源頼朝、義経、西行などの著名人の書状、当時の農民の告訴文章などを、総称していう。



検証1:和歌山県立博物館学芸員の高木徳郎氏の「棚田の初見資料」について」
棚田学会誌「 日本の原風景・棚田」7号(pp111〜115,2006)の報告では、以下(事務局にて要約)のようである。

「覚鑁上人によって建立された高野山の大伝法院が領有する荘園の一つとして、平安時代末期の康冶〜久安年間(1142〜1151)にスタートした「高野山領志富田荘」を、高野山が、建武5(1338)年、正平11(1356)年、長享3(1489)年のそれぞれ三回検注(耕地の面積、地味、耕作者、作柄などを調査すること)を行ったが、最も古い建武3(1338)年の検注帳が現存しており、以下のように「棚田」の文字が見える。」
「棚田一反御得分四十歩ハ余田・・・・・・・・・(略)」 (かつらぎ町史編集委員会編「かつらぎ町史  古代・中世資料編に収載)

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検証2:中島峰広・早稲田大学名誉教授の日本の棚田ー保全への取組み」について
中島峰広・早稲田大学名誉教授の「日本の棚田−保全への取組み」(1999、古今書院)によれば、検証1の建武3(1338)年に遅れること68年、高野山文書「僧快全學道衆竪義料田寄進状」(1406)の記述を、以下(事務局要約)のように紹介している。
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応永13年(1406年)の日付をもつ高野山文書「僧快全學道衆竪義料田寄進状」(高野山領紀州国荒川荘における水田の寄進状)の文章、「今ハ山田ニテ棚ニ似タル故ニ、タナ田ト云・・・・・・」(山の中の傾斜地に作られた田んぼを「山田」といっていたが、棚に形状が似ているので「棚田」という)、を引用し、この中で「棚田」という言葉が初めて使用されたこと、そしてそれが紀ノ川の下流、現在の紀の川市桃山町に位置する荘園に属していた、としている。
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検証3: 海老沢 衷・早稲田大学教の現地踏査
海老沢 衷・早稲田大学教授は、検証2の資料「高野山文書;僧快全學道衆竪義料田寄進状」をもとに現地踏査を行い、初見棚田を特定したことを、棚田学会誌第2号(2001年)で紹介している。


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